2016年9月3日土曜日

皮部論篇第五十六.

七種山 虹の滝
 東洋医学は、体表に現れる気色や肌の色つやなどによって、五臓六腑の充実度を観る。

 瓜やスイカなど、外から眺めて触って軽く叩いて、中の状態を候うようなものである。

 ただ、候うに、瓜やスイカと違う点は、命がけだということである。

 本篇では、外邪がどのように伝変していくかということ。

 そして外邪に侵され始めた時には、体表にその変化が現れるので、それをつぶさに見て治療につなげなさいということだろう。

 当時の外感病は、いったいどのようなものであったのかなど、色々と想像した。

 明の王陽明が、地方に左遷された時、人々がまだ洞穴に住んでおり統制が取れないと、何かの本で目にしたことがある。

 まして素問が著されたと言われている春秋戦国時代にあっては、中央と地方の格差はどのようであったのだろう。

 当時と現代とでは、その衣食住の有様は、大きくかけ離れていたのだろうことは容易に推測できる。

 そして『傷寒論』の序文に在るような、村が全滅するような疫病が、幾度となく横行したのであろう。

 治病は、戦いと同じく機先を制するのが最上である。

 その機先は、体表に在る。

 本篇の邪は、外邪と意訳した。

 主に外感病を扱った『傷寒論』を内傷病に応用するように、内邪もまた逆のルートを通じて体表に現れる。

 直接臨床と繋がるような記載は無いと思われるが、このような見方、捉え方、考え方は大いに学ぶべきものがあると感じている。

 
原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。

 余は皮には十二經脉に分けた部位があり、脈には経の筋道があり、筋には結び絡う部位があり、骨には大小・長短の尺度がある。

 そしてその生じる病は、各々異なっていると聞いている。

 その各部位を明確に別ち、病が上下左右、陰陽のどちらにあるのか、病の始まりと予後など、それらの道理を聞かせてもらいたいのであるが。



 岐伯が答えて申された。

 皮の分部を知ろうとされるのでしたら、経脉を基準とすればよろしいのであります。これは全ての分部と經脉も同じでございます。

 陽明の陽は、害蜚(がいひ)と申しまして、陽明の気がさらに陽に傾きますと、陽気は消散してしまいます。上下、手足の陽明も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて陽明の絡を見ているのであります。

 その浮絡の色が、青が多いようでしたら、それは痛みを現しているのでして、黒が多ければ痹を、黄赤が多ければ熱を、白が多ければ寒を、五色の全てが現れているようでしたら寒熱錯綜をそれぞれ表しております。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 陽である絡は皮部でありますから外を主り、陰である経は臓腑に連なっておりますので内を主っております。

 少陽の陽は、その機能から枢持と言われておりまして、開の太陽、閉の陽明の枢軸を握っております。

 上下・手足の少陽も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて少陽の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 従いまして、陽である絡に在ります外邪は、陰である経を伝って内に入り込みますし、陰である經脉に在ります邪は、経脉を離れて次第に内の臓腑に滲むように入り込むのであります。

 これは、すべての經脉についても同じであります。

 太陽の陽は、外邪が最初に侵す部位であり、腠理開合の関所であります。

 ですからその機能から関枢と言われております。上下・手足の太陽も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて太陽の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 少陰の陰は、太陰と厥陰の枢であり、水を主っているところから、枢儒(濡)を言われております。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて少陰の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 そして邪気は経脉から臓腑にはいり、さらに内の骨に注ぐのであります。

 心主の陰は、害肩と申しまして、厥陰の陰がさらに傾きますと、陰気は万物を塞ぎとめてしまうことになります。上下・手足の厥陰も同様であります。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて心主の絡を見ているのであります。

 絡に外邪が盛んとなりますと、経脉に入って留まるようになります。

 太陰の陰は、土中に潜む虫の出入りする関所の如く、体内の気血の出入りを主るので関蟄(かんちつ)と申します。

 意識的に見て皮部に浮絡が存在するのは、すべて太陰の絡を見ているのであります。

 おおよそ、十二經脉の絡脉と申しますは、皮部のことであります。

 でありますから百病が生じ始めるのは、必ず皮毛にその兆しが現れるのであります。

 もし、外邪が皮部に中りますと、腠理は開いて参ります。そうしますと外邪は絡脉に入って居座る様になり、そのまま留まって去りませんと経脉に伝入致します。

 さらにそのまま去らずに留まりますと、腑に入りまして腸胃に集まる様になるのであります。

 外邪が皮部に入り始めますと、ゾクゾクとして寒気がして体表の毛は逆立ち、そして腠理は開いてしまいます。

 そして絡脉に入ってしまいますと、絡脉は正邪抗争の結果、盛んとなり変色致します。

 また絡脉から経脉に入りますと、正気の不足を感じるようになり、経脉もまた陷下して参ります。

 さらに邪気が筋骨の間に留まり、外邪が寒に傾いているようでしたら筋が引きつれ骨もまた痛んで参ります。

 熱に傾いているようでしたら、筋は弛み骨は衰えて細り、肉は融ける様にやせ衰え、力こぶのような充実した肉は破れたかのように無力となり、毛は立ち枯れのようになってしまいます。

 帝が申された。

 夫子はこれまで、十二の皮部について話された。

 その皮部に病を生じる共通点はいかようなのか。

 岐伯が申された。

 皮と申しますは、経脉の一部でございます。

 ですから外邪が皮に舍りますと正気は敗れて腠理が開きます。

 そうしますと外邪は勢いに乗って絡脉に侵入し、絡脉で正邪の抗争が起こり、脉が満ちたにもかかわらず追い出すことが出来ないと、経脉に注ぎ入り、経脉でもまた外邪の侵入を防ぎきれないと臓腑にまで達してそこに舍るようになります。

 従いまして、皮には分部があり、皮の異変に気がつかないで治療の機会を失いますと、やがて大病を患うことになるのであります。


 帝が申された。 

 よく理解できた、と。



原文と読み下し



黄帝問曰.
余聞皮有分部.脉有經紀.筋有結絡.骨有度量.其所生病各異.別其分部.左右上下.陰陽所在.病之始終.願聞其道.
黄帝問うて曰く。
余は聞く。皮に分部有り、脉に經紀有り、筋に結絡り有り、骨に度量有り。其の生ずる所の病、各おの異なる、と。其の分部を別ち、左右上下、陰陽の在る所、病の始終、願わくば其の道を聞かん。

岐伯對曰.
欲知皮部.以經脉爲紀者.諸經皆然.
陽明之陽.名曰害蜚.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆陽明之絡也.
其色多青則痛.多黒則痺.黄赤則熱.多白則寒.五色皆見.則寒熱也.
絡盛則入客於經.陽主外.陰主内.


岐伯對えて曰く。
皮部を知らんと欲すれば、經脉を以て紀と爲す者なり。諸經皆然り。
陽明の陽、名づけて害蜚(がいひ)と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆陽明の絡なり。
其の色青多きは則ち痛み、黒多きは則ち痺し、黄赤なれば則ち熱し、白多きは則ち寒し、五色皆見われれば則ち寒熱なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。陽は外を主り、陰は内を主る。

少陽之陽.名曰樞持.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆少陽之絡也.
絡盛則入客於經.
故在陽者主内.在陰者主出以滲於内.諸經皆然.


少陽の陽、名づけて樞持と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆少陽の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。
故に陽に在る者は内を主り、陰に在る者は出るを主り以て内に滲(にじ)む。諸經皆然り。

太陽之陽.名曰關樞.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆太陽之絡也.
絡盛則入客於經.


太陽の陽、名づけて關樞と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆太陽の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

少陰之陰.名曰樞儒.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆少陰之絡也.
絡盛則入客於經.其入經也.從陽部注於經.

其出者.從陰内注於骨.
少陰の陰、名づけて樞儒と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆少陰之の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。其の經に入るや、陽部より經に注ぐ。
其の出ずる者は、陰より内りて骨に注ぐ。

心主之陰.名曰害肩.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆心主之絡也.
絡盛則入客於經.


心主の陰、名づけて害肩と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆心主の絡なり。
絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

太陰之陰.名曰關蟄.上下同法.
視其部中有浮絡者.皆太陰之絡也.絡盛則入客於經.

太陰の陰、名づけて關蟄(かんちつ)と曰く。上下法を同じくす。
其の部中を視て、浮絡有る者は、皆太陰の絡なり。絡盛んなれば則ち入りて經に客す。

凡十二經絡脉者.皮之部也.
是故百病之始生也.必先於皮毛.邪中之.則腠理開.開則入客於絡脉.留而不去.傳入於經.留而不去.傳入於府.廩於腸胃.
邪之始入於皮也.泝然起毫毛.開腠理.
其入於絡也.則絡脉盛色變.
其入客於經也.則感虚.乃陷下.
其留於筋骨之間.寒多則筋攣骨痛.
熱多則筋弛骨消.肉爍䐃破.毛直而敗.

凡そ十二經の絡脉は、皮の部なり。
是れ故に百病の始めて生ずるや、必ず皮毛に先んず。邪これに中れば、則ち腠理開く。開けば則ち入りて絡脉に客し、留まりて去らずんば、傳えて經に入る。留まりて去らずんば、傳えて府に入り、腸胃に廩(あつ)まる。
邪の始めて皮に入るや、泝然(そぜん)として毫毛起き、腠理開く。
其の絡に入れば、則ち絡脉盛んにして色變ず。
其の入りて經に客すれば、則ち虚に感じて、乃ち陷下す。
其の筋骨の間に留まりて、寒多きは則ち筋攣し骨痛む。
熱多きは則ち筋弛み骨消し、肉爍(と)け䐃(きん)破れ、毛直して敗す。

帝曰.夫子言皮之十二部.其生病皆何如.
岐伯曰.
皮者脉之部也.邪客於皮.則腠理開.開則邪入客於絡脉.絡脉滿則注於經脉.經脉滿則入舍於府藏也.
故皮者有分部.※不癒而生大病也.
帝曰善.


帝曰く。夫子皮の十二部を言えり。其の病を生ずるは皆いかん。
岐伯曰く。
皮は脉の部なり。邪皮に客せば、則ち腠理開く。開けば則ち邪入りて絡脉に客し、絡脉滿つれば則ち經脉に注ぐ。經脉滿つれば則ち入りて府藏に舍す。
故に皮に分部有り、癒せざれば大病を生じるなり。
帝曰く、善し。



※原文、不與(不与)を甲乙経に倣い不癒に作る。


 鍼専門 いおり 鍼灸院

2016年8月21日日曜日

長刺節論篇第五十五.

慶良間
 前篇に引き続き鍼法について述べられているが、鍼の補寫、遅速、深浅に関しては、他篇と矛盾することが多々ある。 

 これらから推測できることは、刺法に関しては当時から様々な流派ややり方があったことが分かる。

 これは巨刺と繆刺も同じである。

 巨刺と繆刺の鍼法は異なるが、生体全体を見渡し、気の偏在を空間的にとらえ、陰陽の平衡を計ろうとした鍼術としてみれば、同じ視点に立った鍼法であることが分かる。

 気の偏在を捉えること無く、巨刺、繆刺を固定的に捉え鍼を下すと、確実に誤る。

 このように臨床に際しては、原則に囚われず、生体が表現している状態に従って自由に遅速、深浅を加減することこそが大事と解釈することが出来る。

 人体は、一時も静止することなく千変万化するものである。

 その様々に変化する現象の中から、不変のものを見出しその場その場に応じて、一鍼を下すのが鍼灸医学である。

 このような生体の在り様に対して、原則は参考にすれども、定まった鍼法など無いに等しいのだと筆者は考えている。

 当然、本篇で取り上げられている病証と刺法は、ひとつのやり方であり例であって、決して固定的に捉えるべきではないと筆者は考える。

 この例から、何を読み取るかこそが大事と思う。

 固定的に捉えると、対象は実態から離れ、死んでしまうからである。

 また本篇で筆者が注目したのは、以下の一文である。

 <深專者.刺大藏.迫藏刺背.背兪也.刺之迫藏.藏會.腹中寒熱去而止.>

 この記載によって、腹部募穴と背部兪穴間の気の動きを明確にすることが出来る。

 気の動きを概念で捉えることができれば、あとはそのような視点で臨床的に照合していく過程に入ることが出来る。

 このあたりの詳細は、ブログ『一の会 東洋医学講座』 <背部兪穴と胸腹部募穴①~④>筆者の思惑を述べているので、興味のある方は訪れて頂けたらと思います。

 またこの篇は、誤字、脱字の類が多かったので、甲乙経、新校正などを参考に筆者なりに理解しやすいように読み替えたので、含みおいて頂けたらと思う。 
 

 

原 文 意 訳

 鍼の治療家は、診察前に病人の話し方に耳を傾けるものである。

 病が頭に在り、頭が急に痛むときは、鍼が骨に達すると治まるものである。


 その際には、皮は、鍼の出入りする部位であるが、骨肉と皮を傷害するようであってはならない。

 陰刺というは、一か所に刺し入れ、その傍らの四方に刺すのである。

 四方の面積大に気を集めたり散らしたりできるので、寒熱の病を治することができるのである。

 邪気が深い時には、五臓を刺す。

 邪気が五臓に迫ろうとしている時に背兪を刺すのは、五臓の気が背兪に会するからである。

 従って、正邪抗争の場を五臓から背兪に引くために刺鍼するのである。

 そして腹中の寒熱の症状が去れば、鍼もまた止めるのである。

 その際の要は、鍼を速く瞬間的に抜針し、浅いところで少し出血させることである。

 化膿した腫れ物を治するには、化膿部位を直接刺し、できものの大小を意識的に視て鍼の深浅を決めるのである。

 大きなものは、多く刺し、しかも深くするのである。

 その際には、鍼を真直ぐに持って刺入するのが、古来からの方法である。

 小腹部に固いしこりのある病は、皮肉の盛り上がっているところを刺し、そこから少腹部に至ったところで止める。

 さらに第四胸椎の傍らの厥陰兪を刺し、さらに腰骨の両側にある居髎付近と、さらに季脇肋の章門、京門付近を刺し、腹中の凝り固まった気を刺鍼部位に導き、熱所見が無くなれば治まるのである。

 少腹に病があって、腹痛がして大小便が無いのは、疝という病名である。これは寒邪に侵されたことが原因である。

 寒邪に傷られた疝には、小腹部と両方の内股、環跳付近を数多く刺す。下腹部以下全体が、はっきりと温かくなって来ると治まるのである。

 病が筋に在り、筋肉が痙攣して関節も痛み、歩くことが出来ないものを、筋痹と申します。

 筋痹には、筋上を刺すのが古来からの方法である。

 分肉の間を刺して、骨に中らないようにしなければならない。

 病が起こっても、筋が熱するようになると病は癒えて止まるのである。

 病が肌膚に在り、肌膚の尽くが痛むのを、肌痹と申します。寒湿に傷られたからであります。

 大肉・小肉の分間に、多く深く鍼を発し、肌膚が熱するようにするのが、古来からの方法です。

 その際には、筋骨を傷らないように致します。

 もし筋骨を傷りますと、廱(よう=できもの)を発するようになるか、思わぬ病変を生じます。

 大肉・小肉の分間の尽くが熱するようになりますと、病は癒えて止まります。

 病が骨に在り、骨が重く感じて挙動することが出来ず、骨髄は酸痛(だるく痛む)し、寒気の影響を受けるようになるものを、骨痹と申します。

 骨に届くように深く刺すが、脉肉を傷らないようにするのが、古来からの方法である。運鍼は、大肉・小肉の分間を進め、骨が熱するようになると、病は癒えて止まります。

 病が諸陽経に在り、寒と熱の症状が混在し、大肉・小肉の分間もまた、寒と熱の症状が混在しているのを、名づけて狂と申します。

 このような場合、虚脈を刺し、大肉・小肉の分間をしっかりと見て、寒熱の気が交流して、全体が熱すると病は癒えて止まるのである。

 この狂症が初めて発病し、一年に一度発作を起こして治らず、また月に一度発作を起こして治らず、さらに月に四五度発作を起こすようになりますと、これを癲病と申します。

 この際、諸分肉、諸経脉を刺すのであるが、寒の症状が無い場合は、鍼を以てこれを調え熱を平にすれば、病は癒えて止まるのである。

 風を病み、寒熱の症状があり、一日数回発熱して汗が出るような場合は、まず諸の分理絡脉を刺す。

 発汗して寒熱の症状があっても、三日に一度鍼をし、百日すると癒えるのであります。

 大風を病み、骨節が重く、髭や眉が抜け落ちてしまうのを、名づけて大風と申します。

 肌肉を刺すのが、古来からの方法である。発汗すること百日。

 骨髄を刺して発汗させること百日。

 凡そ合計二百日刺鍼し、髭と眉毛が生じて来たら、刺鍼もまた止めるのであります。




原文と読み下し



刺家不診.聽病者言.※1(病)在頭.頭疾痛.爲※2(藏)鍼之.刺至骨.病已※3止(上).無傷骨肉及皮.皮者道也.

陰刺入一.傍四處.治寒熱.

深專者.刺大藏.迫藏刺背.背兪也.

刺之迫藏.藏會.腹中寒熱去而止.

※4(與)刺之要.發鍼而淺出血.


刺家診せず、病者の言を聽く。病は頭に在り、頭疾痛めば、爲にこれに鍼す。刺して骨に至らば、病已み止まる。骨肉及び皮を傷ること無かれ。皮なるは、道なり。

陰刺は一を入れて傍ら四處す。寒熱を治す。

深さ專らなるは、大藏を刺す。

藏に迫るは、背を刺す。背の兪なり。

これ藏に迫るを刺すは、藏會なればなり。腹中の寒熱去りて止む。

刺の要は、鍼を發して淺く血を出すなり。

※1在のうえに病の文字ありとす。

※2(藏)全元起本には蔵の文字がない。これにならう。

※3上を止に改める。

※4與を読まず。



治腐腫者.刺腐上.視癰小大.深淺刺.
※刺大者多而深之.必端内鍼爲故止.必端内鍼爲故止.

腐腫を治するは、腐の上を刺す。癰の小大を視て、深く淺く刺す。

大なるを刺すは、多くしてこれを深くし、必ず端(ただ)しく鍼を内れるを故止と爲す。

※原文は「刺大者多血.小者深之.」甲乙経は、刺大者多而深之.必端内鍼爲故止.とあるに従う。


病在少腹有積.刺皮[骨盾].以下至少腹而止.

刺侠脊兩傍四椎間.刺兩[骨客]髎.季脇肋間.導腹中氣.熱下已.

病少腹に在りて積有るは、皮[骨盾](ひとつ)以下を刺し、少腹に至りて止む。

侠脊の兩傍四椎の間を刺し、兩[骨客]髎(かりょう)、季脇肋の間を刺す。腹中の氣を導き、熱下れば已む。


病在少腹.腹痛不得大小便.病名曰疝.得之寒.

刺少腹兩股間.刺腰髁骨間.刺而多之.盡炅病已.

病少腹に在り。腹痛みて大小便を得ず。病名づけて疝と曰く。これを寒に得る。

少腹兩股の間を刺し、刺腰髁骨(かこつ)の間を刺す。刺してこれを多くす。盡く炅(けい)して病已む。


病在筋.筋攣節痛.不可以行.名曰筋痺.

刺筋上爲故.刺分肉間.不可中骨也.病起.筋炅病已止.


病筋に在り。筋攣し節痛み、以て行くべからず。名づけて筋痺と曰く。

筋上を刺す故と爲す。分肉の間を刺して、骨に中るべからず。病起.筋炅すれば病已(や)みて止る。


在肌膚.肌膚盡痛.名曰肌痺.傷於寒濕.

刺大分小分.多發鍼而深之.以熱爲故.

無傷筋骨.傷筋骨.癰發若變.

諸分盡熱.病已止.


病肌膚に在りて、肌膚盡く痛む。名づけて肌痺と曰く。寒濕に傷らる。

大分小分を刺す。多く鍼を發してこれを深くし、以て熱するを故と爲す。

筋骨を傷ること無かれ。筋骨を傷れば、癰を發し若しくは變ず。

諸分盡く熱すれば、病已えて止む。


病在骨.骨重不可擧.骨髓酸痛.寒氣至.名曰骨痺.

深者刺無傷脉肉爲故.其道大分小分.骨熱病已止.


病骨に在り。骨重くして擧げるべからず。骨髓酸痛し、寒氣至る。名づけて骨痺と曰く。

深き者は刺して脉肉を傷ること無きを故と爲す。其の道は大分小分、骨熱すれば病已えて止む。


病在諸陽脉.且寒且熱.諸分且寒且熱.名曰狂.

刺之虚脉.視分盡熱.病已止.

病初發.歳一發不治.月一發不治.月四五發.名曰癲病.

刺諸分諸脉.其無寒者.以鍼調之.病止.


病諸陽の脉に在り。且つ寒し且つ熱す。諸分且つ寒し且つ熱するは、名づけて狂と曰く。

これを虚脉に刺し、分盡く熱するを視れば、病已えて止む。

病初めて發し、歳に一たび發して治せず。月に一たび發して治せず。月に四五たび發するを、名づけて癲病と曰く。

諸分諸脉を刺す。其の寒無き者は、鍼を以てこれを調えれば、病止む。


病風.且寒且熱.炅汗出.一日數過.先刺諸分理絡脉.

汗出且寒且熱.三日一刺.百日而已.

風を病みて、且つ寒し且つ熱し、炅汗出ずること、一日に數過するは、先ず諸の分理絡脉を刺す。

汗出で且つ寒し且つ熱するは、三日に一たび刺す。百日にして已む。


病大風.骨節重.鬚眉墮.名曰大風.刺肌肉爲故.汗出百日.

刺骨髓.汗出百日.凡二百日.鬚眉生而止鍼.


大風を病みて、骨節重く、鬚眉墮つるを、名づけて大風と曰く。肌肉を刺すを故と爲す。汗出ずること百日、

骨髓を刺して、汗出ずること百日、凡そ二百日、鬚眉生じて鍼を止む。



 鍼専門 いおり鍼灸院






2016年7月31日日曜日

鍼解篇第五十四.

花咲き虫が飛び交う・・・盛夏

 本篇は、鍼の基本的な補瀉法と、それを施したのちの変化の目安について述べられている。

 さらに、内経医学で一貫している『天人相応』思想が、ここでも記載されているが、これをこじつけと思ってしまうと、内経医学の深いところが見えなくなってしまうので一考されたい。

 『天人相応』を、日常生活の中で常に観ていくことが、臨床につながる。


 鍼の遅速に関しては、本篇の内容は基礎的なことで、例えば瀉法を用いる際に陽邪と陰邪とでは大きく異なる。

 また瀉法を施した後、鍼穴を閉じるとの記載もあるが、これもその時々の状態によるので、全般的な補瀉の記載に関しては、決して固定的に捉えないのが良いと思う。

 また、補瀉に関しては、技術的なことは脇に置いておいて、術者の意念がその効果を大きく作用すると付け加えたい。

 言い換えると、「瀉す」、「補う」、という術者の確信が効果を左右する。

 基本的な補瀉について述べられているが、鍼の技術的なことはすでにクリア出来ていて、そこからさらに一歩進んでより効果を上げるため、また鍼の本質を伝えるために、術者の『心持ちの大事』を説いていると、筆者は感じている。




原 文 意 訳

 
  帝が問うて申された。願わくば九鍼の解釈と虚実の道理を聞きたいのであるが。

 それに対して岐伯が申された。

 虚を刺してこれを実しますと、鍼下に熱感が生じます。気が集まりますと熱となるからであります。

 満ちているものを泄する場合は、鍼下が寒するものであります。気が散ってしまいますと、冷えるからであります。

 宛陳、つまり鬱滞して久しいものを取り除こうとする場合は、悪血を出してやります。

 邪が勝つときは、これを虚すとは、抜鍼後に鍼穴を按じて邪が出ていくのを妨げてはならないということです。

 徐にして疾なれば則ち實すとは、補法のことであります。つまり鍼は徐々に刺入し、抜鍼は疾くして鍼穴を按ずるのであります。

 疾くして徐なれば則ち虚すとは、瀉法のことであります。つまり鍼を疾く刺入し、抜針は徐々に行ってから鍼穴を按ずるのであります。

 虚と実について申しますなら、寒温の気の多少を判断材料に致します。

 有るが如き無きが如しとは、鍼を疾く操作する瞬間瞬間のことで、それを言葉で知ることはできないものであります。

 先と後を察するとは、病の新旧、病因病理を察知することであります。

 虚と実を爲すと申しますは、医師は正確に補瀉を行い、補瀉の法を意識から決して離してはなりません。

 気を得たのか失したのかが曖昧な時は、補瀉を明確に判断せず、補瀉の法を離れてしまったからであります。

 補瀉を的確に行うには、九鍼が最も優れております。と申しますのは、九鍼には、それぞれ病態に適うように考案されているからであります。

 補瀉にあたりましては、気の去来に従ってタイミングよく鍼穴を開闔いたします。

 九鍼とは、それぞれ異なった形をしておりまして、まさに補瀉を行うべきところをよく見極めて、九種類の鍼を用いるということであります。

 実を刺して虚するのを待つと申しますは、鍼を刺して留め置き、陰気が盛んになりましてから鍼を去るということであります。

 虚を刺して実するのを待つと申しますは、同じく陽気が盛んになり、鍼下が熱してから鍼を去るということであります。

 経気がすでに至りましたら、慎重にそれを守り失することがあってはなりません。途中で迷って補瀉を変更してはなりません。

 鍼の深浅は志にありとは、病が内外のどこにあるのかを心を専一にして知ることであります。

 遠近は一の如しとは、鍼の深浅・病位を伺うのは、気が至る感覚と同じであるということであります。

 深淵に臨むが如しとは、油断せず慎重になるということであります。

 手に虎を握るが如しとは、慎重にしかも鍼をしっかりと持ち、鍼下の正邪を掴むことであります。

 術者の意識は、周りの様々なことに囚われることなく心を静かにし、病人を観て集中し、左右のものに気を取られキョロキョロ見てはなりません。

 鍼は斜めに下してはならないという意味は、襟を正して偏らず、まっすぐに刺し下すということであります。

 必ずその神を正すとは、病人の目を見てその神を制して落ち着かせ、病人の気がめぐりやすくすることであります。


 それはつまり、互いの目を合わすことにより、患者の神が鎮まるかどうかは、互いの信頼関係と治療効果に大きく影響するということであります。

 いわゆる三里は、膝を下ること三寸にあります。

 跗上(足の甲)は、膝を挙げますと指の間がはっきりとして見やすいものであります。

 巨虚と申しますは、足の向う脛を挙げますと、ひとりくぼむところで、下廉は陥下しているところです。

 帝が申された。余は九鍼が上は天地・四時・陰陽に応ずと聞いている。願わくばその有様を聞いて、後世に伝え、以て鍼の常道にしたいと思うのだが。

 岐伯が申された。

 一は天、二は地、三は人、四は時、五は音、六は律、七は星、八は風、九は野でありまして、人の身体もまたこれに応じておるのであります。


 そして鍼にも、それぞれ適応するところがありますので、九鍼と申すのであります。

 人の皮膚は、人体を包んでおり、天もまた万物を覆っているのと相関いたします。


 同様に人の肉は土に属し、身体に起伏を生じ適度に潤っている様が大地と相関いたします。

 人の脉は状況に応じて常に変化しておりますので、天地の気が交流して様々に変化する様と相関いたします。

 人の筋は、しっかりと骨を束ねているので、人体を移動させることが出来ます。時もまた連続して流れ四時はばらばらにやってくるのではなく、規則的に移り変わる様と相関しております。

 人の声は五音を備え発しますので、五音に応じます。

 人の陰陽消長の気は、大自然の気に応じており、三陰三陽六律の音階変化に応じております。

 人の歯や面目の位置は定まっているように、これらは天の星と相関いたします。

 人の気が出入りする様は、風と相関いたします。

 人には九竅三六五絡がありますが、これは野に湧水があり、また河川が縦横無尽に流れている様に応じます。

 従いまして、一鑱鍼(ざんしん)は皮を刺し、二員針(えんしん)は肉を刺し、三鍉針は脉を刺し、四鋒針は筋を刺し、五鈹針は骨を刺し、六員利鍼は陰陽気血を調和し、七毫鍼は精気を補益し、八長鍼は風邪を駆除し、九大鍼は九竅を疎通します。


 このように三六五節の邪気を除くため、各病状と病位に適うように九鍼を用いるのであります。

 人の心意は、自然界の
気まぐれに吹く八風と同じで、千変万化致します。

 ですから人の気は天の気に応ずと申すのであります。

 人の髪、歯、耳目、五声が調和して聡明なのは、五音六律に調和があることに応じています。

 そして人の陰陽脉血気は、大地に応じているのであります。


原文と読み下し



黄帝問曰.願聞九鍼之解.虚實之道.

岐伯對曰.

刺虚則實之者.鍼下熱也.氣實乃熱也.

滿而泄之者.鍼下寒也.氣虚乃寒也.

宛陳則除之者.出惡血也.

邪勝則虚之者.出鍼勿按.

徐而疾則實者.徐出鍼而疾按之.

疾而徐則虚者.疾出鍼而徐按之.

言實與虚者.寒温氣多少也.

若無若有者.疾不可知也.

察後與先者.知病先後也.

爲虚與實者.工勿失其法.

若得若失者.離其法也.

虚實之要.九鍼最妙者.爲其各有所宜也.

補寫之時者.與氣開闔相合也.

九鍼之名.各不同形者.鍼窮其所當補寫也.


黄帝問うて曰く。願わくば九鍼の解、虚實の道を聞かん。

岐伯對して曰く。

虚を刺して則ちこれを實すとは、鍼下熱するなり。氣實すれば乃ち熱するなり。

滿つればこれを泄すとは、鍼下寒也するなり。氣虚すれば寒するなり。

宛陳(えんちん)なれば則ちこれを除くとは、惡血を出すなり。

邪勝てば則ちこれを虚すとは、鍼出して按ずること勿れ。

徐にして疾なれば則ち實すとは、徐に鍼を出だし疾くこれを按ずるなり。

疾くして徐なれば則ち虚すとは、疾く鍼を出だし、徐にこれを按ず。

實と虚を言うは、寒温の氣の多少なり。

無きが若く有るが如きとは、疾くして知るべからざるなり。

後と先を察するとは、病の先後也を知るなり。

虚と實を爲すとは、工はその法を失すること勿れ。

得るが如く失するが如しとは、その法を離れるなり。

虚實の要、九鍼最も妙なりとは、その各々に宜しき所有るが爲なり。

補寫の時とは、氣の開闔と相い合するなり。

九鍼の名、各々形同じからずとは、鍼はその當に補寫する所を窮むるなり。



刺實須其虚者.留鍼陰氣隆至.乃去鍼也.

刺虚須其實者.陽氣隆至.鍼下熱.乃去鍼也.

經氣已至.愼守勿失者.勿變更也.

深淺在志者.知病之内外也.

近遠如一者.深淺其候等也.

如臨深淵者.不敢墮也.

手如握虎者.欲其壯也.

神無營於衆物者.靜志觀病人無左右視也.

義無邪下者.欲端以正也.

必正其神者.欲瞻病人目.制其神.令氣易行也.

所謂三里者.下膝三寸也.

所謂跗之者.擧膝分易見也.

巨虚者.䯒足蹻獨陷者.

下廉者.陷下者也.

實を刺しその虚を須(ま)つとは、鍼を留め陰氣隆(さか)んに至りて、乃ち鍼を去るなり。

虚を刺しその実を實須(ま)つとは、陽氣隆んに至りて、鍼下熱すれば、乃ち鍼を去るなり。

經氣已に至れば、、愼しみ守りて失すること勿れ、變更すること勿れ。

深淺は志に在りとは、病の内外を知るなり。

近遠一如しとは、深淺その候等しきなり。

深淵に臨むが如しとは、敢えて墮ちざるなり。

手に虎を握るが如しとは、その壯なることを欲するなり。

神衆物を營すること無かれとは、志靜にして病人を觀て左右を視ること無かれとなり。

義にして邪(ななめ)に下すこと無かれとは、端にして以て正ならんことを欲するなり。

必ずその神を正すとは、病人の目を瞻(み)て、その神を制し、氣をして行ること易からしめんと欲するなり。

所謂三里は、膝の下三寸なり。

所謂跗之(ふし)は、膝を擧ぐれば分けて見易きなり。

巨虚は、足の䯒(こう)を蹻(あ)ぐれば、獨り陷するものなり。

下廉は、陷の下なるものなり。



帝曰.余聞九鍼.上應天地四時陰陽.願聞其方.令可傳於後世.以爲常也.

岐伯曰.

夫一天.二地.三人.四時.五音.六律.七星.八風.九野.

身形亦應之.鍼各有所宜.故曰九鍼.


帝曰く。余は聞くに、九鍼は上は天地四時陰陽に應ずと。願わくばその方を聞き、後世に傳え以て常と爲すべからしめんなり。

岐伯曰く。

夫れ一は天。二は地。三は人。四は時。五は音。六は律。七は星。八は風。九は野。

身の形も亦たこれに應ず。鍼各々宜しき所有り。故に九鍼と曰く。



 

人皮應天.人肉應地.人脉應人.人筋應時.人聲應音.人陰陽合氣應律.人齒面目應星.人出入氣應風.人九竅三百六十五絡應野.

故一鍼皮.二鍼肉.三鍼脉.四鍼筋.五鍼骨.六鍼調陰陽.七鍼益精.八鍼除風.九鍼通九竅.除三百六十五節氣.此之謂各有所主也.


人心意應八風.人氣應天.人髮齒耳目五聲.應五音六律.人陰陽脉血氣應地.
人の皮は天に應ず。人の肉は地に應ず。人の脉は人に應ず。人の筋は時に應ず。人の聲は音に應ず。人の陰陽は気に合し律に應ず。人の齒面目は星に應星ず。人の出入の氣派〕風に應風ず。人の九竅三百六十五絡は野に應ず。

故に一鍼は皮。二鍼は肉。三鍼は脉。四鍼は筋。五鍼は骨。六鍼は陰陽を調し、七鍼は精を益し、八鍼は封を除き、九鍼は九竅に通じ、三百六十五節の氣を除く。此れをこれ各々主る所有りと謂うなり。

人の心意は八風に應ず。人の氣は天に應天ず。人の髮齒耳目五聲は、五音六律に應ず。人の陰陽脉血氣は地に應ず。






※以下、王冰の注釈以来、虫損、残欠にのため意味不明であるとされ、後世新たに発見されるのを待つ部分とされているので、原文のみを記すにとどめる。

人肝目應之九.九竅三百六十五.人一以觀動靜.天二以候五色.七星應之以候髮毋澤.五音一以候宮商角徴羽.六律有餘不足應之.二地一以候高下有餘.九野一節兪應之以候閉.節.三人變一分人候齒泄多血少.十分角之變.五分以候緩急.六分不足.三分寒關節.第九分四時人寒温燥濕.四時一應之以候相反一.四方各作解.

九竅三百六十五.人一以觀動靜.天二以候五色.七星應之以候髮毋澤.五音一以候宮商角徴羽.六律有餘不足應之.二地一以候高下有餘.九野一節兪應之以候閉.節.三人變一分人候齒泄多血少.十分角之變.五分以候緩急.六分不足.三分寒關節.第九分四時人寒温燥濕.四時一應之以候相反一.四方各作解.


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2016年7月21日木曜日

刺志論篇第五十三.


 本篇は、基本的な虚実の概念と、変証について述べられている。また初歩的な刺鍼後の手技についても記載されている。

 実に関しては、邪気実としての解説と外邪侵入との解説を多く見るが、「鬱滞即邪」の概念からすると、正気の鬱滞・有余もまた即邪気と転化する視点を見落とさないようにするのが肝要かと思う。

 さらに虚実の概念も、内経では一貫しておらず、単に緊張や充実していることを指して実と表現しているので、実=邪気(もしくは外邪)と短絡しないように気をつけるのが良いと思う。

 さらに言えば、読者諸氏は文中の虚実が何を軸にして論じているのかを明確にしながら読み進めると、より一層理解の幅が広がると思うので参考にされたい。

 また、常と変に関しては、臨床的には常見するので、筆者の独断で意訳に加えた。千変万化する現象から、真仮・虚実の見極めはやはり巧拙に関わってくると実感している。

 さて、本篇の表題『 刺志論』であるが、馬蒔は「志」は「記」と注しているが、「志」が「誌」に通じるためであろう。

 本文最初に、黄帝が「虚実の要」を聞かせてもらいたいとの記述から、虚実は決して誤ってはならない重要な診断であることが知れる。

 「志」とは本来、こころがある方向に向かうことであるから、刺鍼に際しては、決して曲げたり曖昧にしてはならない虚実の概念を述べているからこそ、表題を『 刺志論』としたのではなかろうかと、筆者は考えている。

 読者諸氏は、如何。





原 文 意 訳

  黄帝が問うて申された。願わくば、虚実の要となることを聞きたいのであるが。

 岐伯がそれに対して申された。

 気が実しておれば形もまた実しており、気が虚しておれば形もまた虚しているというのが理に適った常の状態であります。これに反しておりますと、変でありますので病んでおります。

 食を十分に摂取できるものは、気もまた盛んであります。反対にあまり食べることが出来ないものは、気が虚しているというのが常であり、これに反した変でありますと、病んでいるのであります。

 脉力が充実しておれば血色も良く、血もまた充実しており、脉力が弱ければ血色も悪く、血もまた不足しているのが常であります。これに反した変でありますと、病んでいるのであります。

 帝が申された。理に適っていない反・変の状態とはいかなるか。

 岐伯が申された。

 気が盛んであるにもかかわらず、身体が寒していたり、気が不足しているにもかかわらず、身体が熱しておりますと、理に適わない反・変であります。

 しっかりと食物を摂っているにもかかわらず、気が少ないのも反・変であります。


 反対に、あまり食べることが出来ないにもかかわらず、気が多いのも反・変であります。

 脉が盛んで血が少なく血色が悪い、脉が弱いのに血が多く血色が良いというのも、また反・変であります。

 気が盛んであるにもかかわらず身体が寒しているのは、これは寒邪に傷られたからであります。

 気が不足しているにもかかわらず身体が熱しているのは、暑邪に傷られたからであります。

 たくさん食しているのに気が虚している者は、身体のどこかに出血しているところがあり、湿が下焦に在って気を阻んでいるからであります。

 少ししか食していないのに気が多い者は、邪気が胃と肺に在って正気と抗争しているからであります。

 脉が弱いのに血が多く血色が良いのは、水飲が中焦に留まり気と結んで熱しているためである。

 脉が大きく打っているのに血が少なく血色が悪いのは、脉が風気を受け、飲み物も取れないからであります。

 実と申しますは、気が内に入って一杯になった状態で、虚とは正気が抜け出でて不足した状態であります。

 気が実している者は、有余している分だけ身体が熱するものであり、気が虚している者は、不足している分だけ身体が冷えるものです。

 気有余の実でありましたら、鍼の押手であります左手の指で鍼穴を開くようにしまして、気不足の虚でありましたら、同じく鍼穴を閉じるように手技を致すのであります。




原文と読み下し

黄帝問曰.願聞虚實之要.

岐伯對曰.

氣實形實.氣虚形虚.此其常也.反此者病.

穀盛氣盛.穀虚氣虚.此其常也.反此者病.

脉實血實.脉虚血虚.此其常也.反此者病.


黄帝問うて曰く。願わくば虚實の要を聞かん。

岐伯對して曰く。

氣實して形實し、氣虚して形虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。

穀盛んにして氣盛ん、穀虚して氣虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。

脉實して血實し、脉虚して血虚す。此れ其の常なり。此れに反するものは病む。



帝曰.如何而反.

岐伯曰.

氣虚身熱.此謂反也.

穀入多而氣少.此謂反也.

穀不入而氣多.此謂反也.

脉盛血少.此謂反也.

脉少血多.此謂反也.


帝曰く。如何にしてか反すや。

岐伯曰く。

氣虚して身熱す。此れを反と謂うなり。

穀入ること多くして氣少なし。此れを反と謂うなり。

穀入らずして氣多し。此れを反と謂うなり。

脉盛んにして血少し。此れを反と謂うなり。

脉少く血多し。此れを反と謂うなり。



氣盛身寒.得之傷寒.

氣虚身熱.得之傷暑.

穀入多而氣少者.得之有所脱血.濕居下也.

穀入少而氣多者.邪在胃及與肺也.

脉小血多者.飮中熱也.

脉大血少者.脉有風氣.水漿不入.此之謂也.


氣盛んにして身寒するは、これを傷寒に得る。

氣虚して身熱す。これを傷暑に得る。

穀入ること多くして氣少き者は、これ脱血する所有りて、濕下に居るに得る。

穀入ること少くなくして氣多き者は、邪は胃と肺に在るなり。

脉小にして血多き者は、飮して中は熱するなり。

脉大にして血少き者は、脉に風氣有り、水漿入らず。此れを之れ謂うなり。


夫實者氣入也.虚者氣出也.

氣實者熱也.氣虚者寒也.

入實者.左手開鍼空也.

入虚者.左手閉鍼空也.


夫れ實するとは、氣の入るなり。虚するとは、氣出ずるなり。

氣實する者は熱するなり。氣虚する者は寒するなり。

實に入る者は、左手もて鍼空(はりあな)を開くなり。

虚に入る者は、左手もて鍼空を閉すなり。


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2016年7月17日日曜日

刺禁論篇第五十二.

もうすぐ梅雨明けでしょうか


 この篇では、禁鍼穴と過誤の起こりやすい部位を明確にし、同時に深く刺すことを戒めている。

 この篇を読み返す度に、病に苦しむ人を、治してあげたいという想いで行った鍼治療で、反って患者が目の前で悪化したり死亡する情景に接して、術者はどのような気持ちになったのだろうかと想像してしまう。

 治すことが出来ないと、治療者も病人も共に苦しむものだ。まして悪化・死亡など、あってはならないことが、過去に起きたからこそ、ここに記述されているのである。

 このことに深く思いを至らせて、過誤の無いように努めるのは最低のことで、術者は、はるかにそれ以上のでなければならない。

 深刺しと局所治療は、よほどの根拠がない限り、施すべきでないというのが筆者の考えである。

 内経医学では、全身の『気の偏在』を視野に入れ、心身ともに人としての本来の姿に戻すことを第一の目的として刺鍼する。

 外後頭隆起の下方、腦戸穴・瘂門穴に深刺しして、脳に中ると即死であるとの記載は、当時から脳の重要性を一定認識していることが知れる。

 にもかかわらず、内経医学では脳は腎精の余りであるとして、さほど重要視していないのは、重要である。

 そして東洋医学では、生命の中枢は脳ではなく、五臓に求めている。

 西洋医学とは、人体観・生命観が異なるためである。

 実際の臨床において、現代医学的に脳の疾患と診断されたものであっても、五臓の虚実を調えることで治癒した筆者の臨床症例は、数えてはないがかなり存在する。

 現代医学的病名は、参考にはなるが東洋医学とは世界が異なる。

 現象として現れている症状を無視するのではないが、それにとらわれず全体性の回復を図り、結果として症状が消失するのが東洋医学の基本的な視点であることを、再確認しておきたい。

 



原 文 意 訳

 黄帝が問うて申された。願わくば、刺鍼に際しての禁忌を聞きたいのであるが。

 岐伯が申された。

 臓には要害となるところがございますので、必ずこれらを知っておかなくてはなりません。

 肝の気は、左に生じまして、肺の気は右に蔵されております。

 心の気は、表在部を流れており、腎の気は深在部を流れて諸臓を治めております。


 脾は土で中央でありますれば、他の四臓それぞれの必要に応じて気血を送り、胃は水穀五味が聚る所であります。

 膈の上は、人体の父母である心肺があり、七節下・至陽穴の傍ら膈兪穴には、心の気の根である腎気が昇ってきております。

 これらのことを十分にわきまえて治療すれば福とすることが出来ますが、そうでなければ咎を負うことになります。

 もし、刺して心に中れば一日で死し、その変動は噫(おくび)となって現れます。

 同様に、刺して肝に中れば五日で死し、その変動はやたらと多言となって現れます。

 刺して腎に中れば、六日で死し、その変動は嚔(くさめ=くしゃみ)となって現れます。

 刺して脾に中れば、十日で死し、その変動は呑(どん)、つまり嚥下困難な状態に現れます。

 刺して胆に中れば、一日半で死し、その変動は、嘔(おう)、つまり吐き気となって現れます。

 刺して足の甲の大きな脉に中りますと、出血が止まらず死します。

 刺して顔面の脉の支別が浮いて見える溜脉に中りますと、不幸にして失明致します。

 刺して頭の腦戸に中りますと、鍼が脳に入って即死致します。

 刺して舌下の脉に中り、それが大いに過ぎますと出血が止まらなくなり、瘖(いん)、つまり言語障害になります。

 足下に分布する絡を刺し、脉に中ってしまうと、内出血となるので腫れて参ります。

 郄中、つまり委中穴の大脉に中りますと、顔面の気色を失い昏倒致します。

 気街、つまり気衝穴に刺して脉に中り、出血しない場合は鼠蹊部が腫れます。

 椎間を刺し、髄に中りますとせむしとなります。

 乳の上を刺して乳房に中りますと、腫れて内部から腐って参ります。

 缺盆穴の中を刺し、深刺しすると気が泄れ、あえぎながら咳をするようになります。

 手の魚腹を刺し、深刺しすると腫れて参ります。

 大いに酒に酔っているものを刺してはなりません。陽気過多であるので、気が乱れて収拾がつかなくなります。

 大いに起こっているものを刺してはなりません。怒気で上逆しているのが、さらにひどくなります。

 その他、疲労困憊している人、食後満腹となっている人、大いに餓えている人、大いに渇している人、大いに驚いて気が乱れている人、これらの人は、刺してはなりません。

 ですので、疲労困憊している人はしばらく休ませ回復を待ち、満腹の人は飲食が臓腑になじむのを待ち、餓えているものは少し食を進め、渇しているものは少し飲水をさせ、驚いて乱れている気が落ち着つくのを待ってからなど、刺鍼までには工夫が必要であります。

 陰股、つまり股の内側を刺して大脉に中り、出血が止まらなければ死します。

 客主人(上関)穴を深刺して脉に中りますと、頭内の気が漏れ、聾となります。

 膝蓋骨を刺し、液が出るとビッコとなります。

 腕の太陰脉を刺し、出血が多いと、たちどころに死します。

 すでに虚している足少陰を刺し、重ねて出血させて虚となりますと、舌が思うように動かなくなり言葉も話せなくなります。

 胸を深刺しし、肺に中りますと喘いで仰向けになって呼吸するようになります。

 肘窩を深刺し、気が鬱滞すると肘の屈伸が出来なくなります。

 大腿内側の下三寸を深刺しすると、小便を失禁するようになります。

 少腹を刺し、膀胱に中りますと腹腔内に小便が流出し、少腹が満となります。

 ふくらはぎを深刺しすると、その部位が腫れます。

 眼窩を刺して、脉に中りますと、涙が漏れ出たり失明致します。

 関節を刺し、液が出ると屈伸できなくなります。 



原文と読み下し

黄帝問曰.願聞禁數.

岐伯對曰.

藏有要害.不可不察.

肝生於左.

肺藏於右.

心部於表.

腎治於裏.

脾爲之使.

胃爲之市.

鬲肓之上.中有父母.七節之傍.中有小心.從之有福.逆之有咎.


黄帝問うて曰く。願わくば禁數を聞かん。

岐伯對して曰く。

藏に要害有り。察せざるべからず・

肝は左に生ず。

肺は右に藏す。

心は表に部す。

腎は裏に治まる。

脾はこれが使たり。

胃はこれが市たり。

鬲肓の上、中に父母有り。七節の傍、中に小心あり。これに從えば福有り。これに逆えば咎有り。 


刺中心.一日死.其動爲噫.

刺中肝.五日死.其動爲語.

刺中腎.六日死.其動爲嚔.

刺中肺.三日死.其動爲欬.

刺中脾.十日死.其動爲呑.

刺中膽.一日半死.其動爲嘔.


刺して心に中れば、一日にて死す。其の動は噫を爲す。

刺して肝に中れば、五日にて死す。其の動は語を爲す。

刺して腎に中れば、六日にて死す。其の動は嚔を爲す。

刺して肺に中れば、三日にて死す。其の動は欬を爲す。

刺して脾に中れば、十日にて死す。其の動は呑を爲す。

刺して膽に中れば、一日半にて死す。其の動は嘔を爲す。


刺跗上.中大脉.血出不止死.

刺面中溜脉.不幸爲盲.

刺頭中腦戸.入腦立死.

刺舌下中脉太過.血出不止.爲瘖.

刺足下布絡中脉.血不出.爲腫.

刺郄中大脉.令人仆脱色.

刺氣街中脉.血不出.爲腫鼠僕.

刺脊間.中髓.爲傴.

刺乳上.中乳房.爲腫根蝕.

刺缺盆中.内陷氣泄.令人喘欬逆.

刺手魚腹.内陷爲腫.


跗上を刺して大脉に中れば、血出でて止ざれば死す。

面を刺して溜脉に中れば、不幸なるは盲を爲す。

頭を刺して腦戸に中れば、腦に入れば立ちどころに死す。

舌下を刺して脉に中ること太過なれば、血出でて止まざれば、瘖となる。

足下の布絡を刺して脉に中り、血出でざれば、腫となる。

郄中の大脉を刺せば、人をして仆(たお)れ色脱せしむ。

氣街を刺し脉に中りて、血出でざれば、鼠僕は腫となる。

脊間を刺し、髄に中れば、傴(く)となる。

乳上を刺し、乳房に中れば、腫れて根蝕む。

缺盆の中を刺し、内陷して氣泄れれば、人をして喘し欬逆せしむ。

手の魚腹を刺して、内陷すれば腫となる。 


無刺大醉.令人氣亂.

無刺大怒.令人氣逆.

無刺大勞人.

無刺新飽人.

無刺大饑人.

無刺大渇人.

無刺大驚人.


大醉を刺すこと無かれ。人をして氣亂れしむ。

大怒をを刺すこと無かれ。ひとをして氣逆せしむ。

大勞の人を刺すこと無かれ。

新飽の人を刺すこと無かれ。

大饑の人を刺すこと無かれ。

大渇の人を刺すこと無かれ。

大驚の人を刺すこと無かれ。 


刺陰股中大脉.血出不止死.

刺客主人.内陷中脉.爲内漏.爲聾.

刺膝髕.出液爲跛.

刺臂太陰脉.出血多.立死.

刺足少陰脉.重虚出血.爲舌難以言.

刺膺中.陷中肺.爲喘逆仰息.

刺肘中.内陷氣歸之.爲不屈伸.

刺陰股下三寸.内陷.令人遺溺.

刺掖下脇間.内陷.令人欬.

刺少腹.中膀胱溺出.令人少腹滿.

刺腨腸.内陷.爲腫.

刺匡上.陷骨中脉.爲漏爲盲.

刺關節中.液出.不得屈伸.


陰股を刺し大脉に中り、血出でて止まざれば死す。

客主人を刺し、内陷して脉に中れば、内漏を爲し、聾となる。

膝髕(しつひん)を刺し、液出ずれば跛(は)となる。

臂の太陰の脉を刺し、出血多ければ、立ちどころに死す。

足の少陰の脉を刺し、重ねて虚し血出だせば、舌言うを以て難きを爲す。

膺中を刺し、陷して肺に中れば、喘逆し仰息となる。

肘中を刺し、内陷し氣これに歸すれば、屈伸せざるを爲す。

陰股の下三寸を刺し、内陷すれば、人をして遺溺せしむ。

掖下脇間を刺し、内陷すれば、人をして欬せしむ。

少腹を刺し、膀胱に中りて溺出ずれば、人をして少腹滿せしむ。

腨腸(せんちょう)を刺し、内陷すれば、腫を爲す。

匡上(きょうじょう)の陥骨を刺して脉に中れば、漏を爲し盲を爲す。

關節の中を刺し、液出ずれば、屈伸を得ず。 


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2016年7月9日土曜日

刺齊論篇第五十一.

梅雨明けが待ち遠しい

 本篇『刺齊論』は、前篇「刺要論」の続編となっている。筆者の考えは、前編ですでに述べているので、特筆すべき事柄はない。

 ただ、なぜ『刺齊論』として別に論じているのだろうという漠然とした疑問は残る。

 『刺齊論』の齊の文字は、古代祭壇の前で奉仕することを意味している。

 そこから、心身を清めて慎む意味となった経緯を思うと、患者を目の前にして術者は心身を清め、つつしんで鍼の深浅を図らなければならないということなのであろうか。




原文意訳



 黄帝が問うて申された。願わくば、刺鍼の深浅の区別を聞きたいのであるが。

 それに対して岐伯が申された。

 骨を目標として刺鍼する場合には、肉を傷ってはなりません。

 同様に筋を刺すには肉を、肉を刺すには脉を、脉を刺す場合には皮を、皮を刺すには肉を、肉を刺すには筋を、筋を刺すには骨をそれぞれ傷ってはならないのであります。

 帝が申された。余は未だその言わんとする所の意味がいまひとつよく分からない。

 願わくば、言わんとする所をさらに解いて頂きたいのであるが。

 岐伯が申された。

 骨を刺して筋を傷ること無かれと申しますのは、鍼が筋に至ったところで去ってしまい、骨に及ばないことを申します。

 同様にそれぞれ筋を目標に刺し肉には至ったところで去ってしまい筋に及ばず、

 肉を目標に刺し脉に至ったところで去ってしまい肉に及ばず、

 脉を目標に刺し皮に至ったところで去ってしまい脉に及ばない、ということであります。

 つまり、浅すぎるのであります。

 いわゆる、皮を刺して肉を傷ること無かれと申しますは、病邪が皮の表在部にあれば、鍼もまた浅く皮の部分を刺して肉を傷ってはならないのであります。

 また、肉を刺して筋を傷ること無かれと申しますは、病邪の存在する肉を過ぎて深刺しすると筋に中って障害してしまいます。

 同様に、筋を刺して骨を傷ること無かれと申しますは、病邪の存在する筋を過ぎて深刺しすると、骨に中って障害してしまいます。つまり深すぎるのであります。

 以上、謹んで鍼の深度を考慮せず刺鍼することを、道理に反すると申すのであります。





原文と読み下し

黄帝問曰.願聞刺淺深之分.

岐伯對曰.

刺骨者無傷筋.

刺筋者無傷肉.

刺肉者無傷脉.

刺脉者無傷皮.

刺皮者無傷肉.

刺肉者無傷筋.

刺筋者無傷骨.


黄帝問いて曰く。願わくが刺の淺深の分を聞かん。

岐伯對して曰く。

骨を刺す者は、筋を傷ること無かれ。

筋を刺す者は、肉を傷ること無かれ。

肉を刺す者は、脉を傷ること無かれ。

脉を刺す者は、皮を傷ること無かれ。

皮を刺す者は、肉を傷ること無かれ。

肉を刺す者は、筋を傷ること無かれ。

筋を刺す者は、骨を傷ること無かれ。


帝曰.余未知其所謂.願聞其解.

岐伯曰.

刺骨無傷筋者.鍼至筋而去.不及骨也.

刺筋無傷肉者.至肉而去.不及筋也.

刺肉無傷脉者.至脉而去.不及肉也.

刺脉無傷皮者.至皮而去.不及脉也.


帝曰く。余は未だ其の謂う所を知らず。願わくば其の解を聞かん。

岐伯曰く。

骨を刺して筋を傷ること無かれとは、鍼筋に至りて去れば、骨に及ばざるなり。

筋を刺して肉を傷ること無かれとは、肉に至りて去れば、筋に及ばざるなり。

肉を刺して脉を傷ること無かれとは、脉に至りて去れば、肉に及ばざるなり。

脉を刺して皮を傷ること無かれとは、皮に至りて去れば、脉に及ばざるなり。



所謂

刺皮無傷肉者.病在皮中.鍼入皮中.無傷肉也.

刺肉無傷筋者.過肉中筋也.

刺筋無傷骨者.過筋中骨也.此之謂反也.


所謂

皮を刺して肉を傷ること無かれとは、病皮中に在り、鍼皮中に入れば、肉を傷ること無きなり。

肉を刺して筋を傷ること無かれとは、肉を過れば筋に中るなり。

筋を刺して骨を傷ること無かれとは、筋を過れば骨に中るなり。此れ之を反と謂うなり。


 鍼専門 いおり鍼灸院






2016年6月9日木曜日

刺要論篇第五十.

梅雨と言えば紫陽花

 本篇は、刺鍼に際しての基本的な深度について述べられている。

 <素問・金匱真言論篇、宣明五気篇>に記されている五主(皮・肉・脉・筋・骨髄)を例に挙げて、どこを狙って針先を進めるのかを説いている。

 ちなみに、筆者は五主を目標に鍼を下すことは無い。

 それよりもむしろ、本篇を意訳したように、正邪抗争の場=病位と、生体の正気の状態と邪気の種類、その勢いを念頭にし、刺鍼後の深度は意識に無い。

 あるのは、瀉法であればいかにして邪気を捕まえるか、補法であればいかにして気を集めるか、のみである。

 だた刺鍼は、たとえ補法であっても生体を傷つけるので、「いかに浅く刺すか」「いかに数少なく刺すか」は、よくよく工夫が必要である。

 歴史的に禁鍼穴として禁忌の穴所があるが、いわゆる解剖学的な安全深度を意識しなくてもよい鍼法を目指すのが良いと筆者は考えている。

 諸氏は、如何。


原文意訳

黄帝が問うて申された。願わくば、刺法の要となることを聞きたいのであるが。

 それに対して、岐伯が申された。

 病には、浮沈。つまり正邪が争う病位がございます。従いまして刺法にも深浅がございまして、その時々において正邪の状態と病位を捉えて、浅すぎず深すぎず的確に刺すのであります。

 病位を過ぎますと、裏であります身体内部の気が傷れますし、及ばざれば身体の浅いところに鬱滞を生じますので、そこに反って邪が聚るようになります。

 病位をわきまえずに刺鍼しますと、良くしてあげようという気持ちで行ったとしても大きな害を与える大賊となってしまいます。そうなると五臓六腑の気は動じて正常に機能しなくなり、後々大病を生じてしまうのであります。

 ですから、以下のように言うのであります。

 病が毫毛・腠理に在るもの、皮膚に在るもの、肌肉に在るもの、脈に在るもの、筋に在るもの、骨に在るもの、髄に在るものがあります。

 このようでありますから、毫毛・腠理を刺す場合は皮を傷ってはなりませんし、皮を傷ってしまいますと肺の気が動じて秋に温瘧の病となり、ゾクゾクとして振るえるかのような悪寒症状が現れます。

 皮を刺す場合は、肉を傷ってはなりません。肉を傷ってしまいますと脾の気が動じ、四季の終わりの土用十二日間、合計七十二日に腹が脹満して煩悶する病が現れ、食欲もなくなります。

 肉を刺す場合は、脉を傷ってはなりません。脉を傷ってしまいますと心の気が動じ、夏になりますと心痛の病が現れます。

 脉を刺す場合は、筋を傷ってはなりません。筋を傷ってしまいますと肝の気が動じ、春になりますと熱を生じて筋がだらりと弛む病が現れます。

 筋を刺す場合は、骨を傷ってはなりません。骨を傷ってしまいますと腎のきが動じ、冬になりますと腹が脹り、腰痛がする病が現れます。

 骨を刺す場合は、髄を傷ってはなりません。髄を傷ってしまいますと次第に髄が溶け出して漏れてしまい、脛は重だるくなり、身体もまた重だるくて動けなくなる感覚が、いつまで経っても去らない病が現れます。




原文と読み下し

黄帝問曰.願聞刺要.
岐伯對曰.
病有浮沈.刺有淺深.各至其理.無過其道.
過之則内傷.不及則生外壅.壅則邪從之.
淺深不得.反爲大賊.内動五藏.後生大病.

黄帝問いて曰く。願わくば刺要を聞かん。
岐伯對して曰く。
病に浮沈有り、刺に淺深有り。各おの其の理に至りて、其の道を過ぐることなかれ。
これを過ぐれば則ち内傷り、及ばざれば則ち外に壅を生ず。壅すれば則ち邪これに從う。
淺深を得ざれば、反って大賊を爲し、内は五藏動じ、後に大病を生ず。



故曰.
病有在毫毛腠理者.
有在皮膚者.
有在肌肉者.
有在脉者.
有在筋者.
有在骨者.
有在髓者.


故に曰く。
病毫毛腠理に在る者有り。
皮膚に者在る者有り。
肌肉に者在る者有り。
脉に者在る者有り。
筋に者在る者有り。
骨に者在る者有り。
髓に者在る者有り。


是故刺毫毛腠理無傷皮.皮傷則内動肺.肺動.則秋病温瘧.泝泝然寒慄.
刺皮無傷肉.肉傷則内動脾.脾動.則七十二日四季之月.病腹脹煩.不嗜食.
刺肉無傷脉.脉傷則内動心.心動.則夏病心痛.
刺脉無傷筋.筋傷則内動肝.肝動.則春病熱而筋弛.
刺筋無傷骨.骨傷則内動腎.腎動.則冬病脹腰痛.
刺骨無傷髓.髓傷則銷鑠䯒酸.體解㑊然不去矣.


是の故に、毫毛腠理を刺すに皮を傷ることなかれ。皮傷るれば則ち内は肺を動ず。肺動ずれば則ち秋に温瘧を病み、泝泝(そそ)然として寒慄す。
皮を刺すに肉を傷ることなかれ。肉傷るれば則ち内は脾を動ず。脾動ずれば則ち七十二日四季の月、腹脹煩を病み、食を嗜なまず。
肉を刺して脉を傷ることなかれ。脉傷るれば則ち内は心動ず。心動ずれば則ち夏に心痛を病む。
脉を刺すに筋を傷ることなかれ。筋傷るれば則ち内は肝動ず。肝動ずれば則ち春に熱して筋弛むを病む。
筋を刺すに骨を傷ることなかれ。骨傷るれば則ち内は腎動ず。腎動ずれば則ち冬に脹腰痛を病む。
骨を刺すに髓を傷ることなかれ。髓傷るれば則ち銷鑠(しょうしゃく)して䯒(こう)酸し、體は解㑊(かいえき)然として去らざるなり。


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